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2005.09.22 畠山氏
三管領の後一つ、畠山氏のことでも書いてみよう。

畠山氏

 鎌倉馬腹の有力御家人であった畠山氏が婚姻関係で足利一族となった。
 そもそもは桓武平氏秩父支流であった。
 秩父支流畠山氏の嫡流で、鎌倉幕府草創期に活躍した畠山重忠の名跡を継いだものであった。
 畠山重忠は北条氏の謀略によって滅亡するが、重忠の妻は北条時政の娘だった関係から、重忠死後に足利義兼の子・義純と再婚した。
 そこで義純は畠山氏の名跡を絶やさないために畠山氏を名乗ることになり、畠山重忠の旧領も義純に与えられた。
 以来、畠山氏は清和源氏となり、鎌倉末まで続いた。
 元弘の変から建武の争乱にあたって、足利尊氏に従って軍功を挙げ、高国は奥州探題として東下し、その子孫は二本松畠山氏となった。
 また高国の弟・貞国の孫・国清は鎌倉公方足利基氏の執事として活躍したが、やがて基氏に追われて没落した。
 国清の弟・清澄は幕府に仕え、能登・越中・河内・和泉などの守護となり、その子・基国は明徳の乱、応永の乱に功を立て、斯波氏・細川氏と並ぶ三管領の一人に数えられるに至った。
 また、満家の弟・満則の系統が能登畠山氏として七尾城に移動し、戦国時代まで続いた。
 畠山基国が将軍義満の管領となって越中・能登・河内・紀伊の守護となった。
 後、義就と政長の相続争いの内紛で応仁の乱後に衰えた。




畠山 基国   生没年:1352年~1406年

父:畠山 義深

子:
満家   生没年:1372年~1433年

満慶   生没年:1372年~1432年
 能登畠山家へ

官位は、右兵衛督。
室町時代2代将軍足利義彰、3代足利義満に仕えて山城国・能登国・河内国・越中国の守護職を歴任した。
1391年、山名氏が蜂起した明徳の乱では幕府方の一員として参戦。
1398年、斯波義将の後継として管領を命じられる。
1399年、大内氏が蜂起した応永の乱でも戦う。
1406年、53歳で死去。家督は子の畠山満家が継いだ。法号は長禅寺殿春岩徳元。
基国は、畠山氏で初めて管領となった人物であり、室町時代に畠山氏が三管領となった事から、畠山氏の中興の祖といわれている。












畠山 義就   生没年:1437年?~1490年

父:畠山 持国

子:畠山 義豊

初名を義夏という。
畠山氏の家督は養子に迎えた畠山持豊に決まっていたが、義就が誕生すると、持豊への相続を撤回する。
室町幕府8代将軍・足利義政の裁可を得て義就が新たな後継者として定められる。
義就への相続には、守護代の神保氏や被官らが反対し、持豊の子である畠山弥三郎を支持して対抗する。
1454年、細川勝元や大和の国人である筒井氏らの支持を得て、義政から赦免された弥三郎は再び上洛する。
一時は義政の計らいで和睦した。
1455年、父・持国が死去すると家督を継承。
しかし、勝元は引き続き政長を援助、義政もこれに従った。
1459年、弥三郎が病死すると、今度は弟の畠山政長が擁立され、対立を続ける。
1460年、細川勝元の援助を受けた、政長が家督を継承する。
義就には討伐の綸旨が下り、朝敵となる。
河内に下り、河内若江城に拠ったが、政長の攻撃を受けて敗走を重ねる。
義就は獄山城に篭城し、討伐に下った畠山、細川、武田らの兵と戦う。
1463年、獄山上は陥落、義就は紀伊から吉野へと逃れる。
1466年、義就は細川勝元と対抗する山名宗全の支持を得、赦免され河内から上洛する。
義政との拝謁も果たし、政長に畠山邸の明渡しを要求させ、管領を辞任させる。
1467年、上御霊神社において衝突し、山名や斯波氏の協力を得て、政長を破る。
御霊合戦により山名氏が有利となったことで、翌年には細川氏の巻き返しが起こり、応仁の乱が口火を切ることになる。
1472年、乱中は一時河内を制圧するなどして奮戦したが、義就は京から山崎を経て河内に入り転戦する。
1477年、義就が政長討伐のため河内へ下り、遊佐氏を追い詰め河内を制圧する。
が、政長の反撃もあり山城・河内を巡り激しい戦闘が続いた。
1482年、細川政元と和睦が成立し、西軍諸将が相次いで帰国して解散する。
が、政長との抗争は続いた。
主戦場となった山城国で国人らの一揆が起こり、撤退を要求される。
1490年、没。
山城一揆の弾圧に乗り出したことから、一揆の中心人物であった伊吹三郎によって殺されたという話もある。




畠山 政長   生没年:1442年~1493年

父:畠山 持豊
養父:畠山 持国

子:
畠山 尚順   生没年:1475年~1522年
 初名は畠山尚慶。号は朴山。
 1492年、将軍・足利義稙に従い近江国に遠征。
 翌年、父・政長に従い畠山義豊を討伐したが、細川政元と戦い敗れる。
 父・政長が戦死したため、その後を継ぎ、家督を継承する。
 1499年、義豊を殺害、細川政元と摂津国で戦うが、大敗を喫した。
 その後、矛先を細川元有りや畠山義英(義豊の子)に変えて戦っていく。
 1508年、政元の死後の混乱に乗じて足利義澄を擁して上洛。
 再度、畠山義英と戦ったが、家臣の離反に遭い大敗を喫し、堺へ逃亡する。
 その後、再挙を図ったが、果たせず、1522年、淡路にて死去。享年48歳。




名を弥二郎という。
兄・畠山弥三郎の死後、伯父・持国の養子となる。
管領・持国から家督を継いだ。が、家督を争って与力である神保長誠に担がれる。
細川勝元を頼り後援を受ける。
1466年、管領に就任。次いで家督を相続し、河内・紀伊・越中の守護職に就任する。
山名宗全らが畠山義就を擁立して上洛、政長は罷免される。
その後、義就と対立が激化する。
1467年、管領解任を不服とし細川勝元を頼り、ついに京都上御霊社において挙兵する。これが応仁の乱の口火となる。
同年、管領・細川勝元の支援を受け管領に復帰する。
その後、義就と対立を続けながらも、数度管領に叙され、9代将軍義尚の近江親征に随行。
1493年、足利義材を将軍に立てる。
河内親征などに随行。
幕府の長老として専横を続けたため、諸将より憎まれたという。
が、細川勝元の子・細川政元が義材の廃立を目的として東軍でありながら謀反を起こし、政長は河内国正覚寺城を包囲される。
子・尚順らを逃した後、自害する。享年52歳。
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