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2005.09.21 細川 勝元
応仁の乱で、山名宗全と対立していた細川勝元のことでも書いてみよう。

細川 勝元

生没年:1430年~1473年



細川氏
 清和源氏足利氏の一流。義季が三河国額田郡細川に住んで氏とした。四国を中心に8カ国の守護職を占め、室町時代には有力守護大名となり、三管領の一つとなる。
 畿内に勢力を有することもあり、次第に畠山や斯波氏を出し抜き、幕政を牛耳るようになる。
 しかし、家臣の三好氏や陪臣の松永氏に権力を剥奪されるようになると、その勢威は衰退する。
 傍流の細川藤孝により、再び家運が回復され、近世大名として幕末まで肥後藩藩主として存続している。
 明治以降終戦まで侯爵の爵位があった。内閣総理大臣となった細川護煕はこの血筋という。




父:細川 持之   生没年:1400年~1442年
 幼名は弥九郎。中務小輔、右京大夫。官位は従四位下。
 摂津、丹波、讃岐、土佐の守護。1432年、斯波義淳の後、管領に就任し、6代将軍・足利義教が専制政治を行う中、管領職を務めた。
 永享の乱、結城合戦などに対応している。
 1440年、赤松満祐が結城合戦祝勝会で義教を暗殺した際には持之は難を逃れている。
 義則暗殺後は、幼い嫡子・足利義勝を将軍に就任させ、諸将を集結させて赤松氏を討伐する。これを嘉吉の乱という。
 その後は管領職を辞任し出家している。その後の幕政は畠山持国が台頭することになる。1442年死去、享年42。

母:不明

正室:春林寺殿 桂昌禅尼
 山名熙貴の娘。山名宗全の養子となって嫁いで来た。

子:
洞松院尼
 赤松政則室。

細川 政元   生没年:1466年~1507年
 幼名は聡明丸。通称九郎。
 1473年、勝元が没すると8歳で後を継いだ。が、幼少のため、管領職は畠山政長が継承している。
 細川氏の地位は依然大きく、宮代償具義尚の六角討伐に反対して同行しなかったり、義尚が死去した際に足利政和の子・清晃(後の義澄)を推して日野富子と対立した。
 日野富子によって十代将軍となった義稙は、六角氏や畠山基家を征伐して将軍の権威を高めようとした。
 これに対し政元は、1493年、畠山基家征伐に出ている間に京都でクーデターを起こし、義澄を十一代将軍につけている。これを明応の政変という。
 以後、政元が管領として政治を行ったという。しかし、実際は細川氏の家臣である内衆が政務を行い、政元自身は修験道に凝って政務にはあまりかかわらなかっったという。
 政元には男子がなく、関白九条家から澄之、分家の阿波細川家から澄元の二人の養子をとっていた。このため、晩年には有力被官が二派に別れ抗争することになる。
 この抗争の最中、政元は澄之派の香西元長らに殺される。
 以後、細川家も他の守護家と同じように分裂衰退の一途を辿っている。

養子:
山名 豊久
 山名宗全の子。政元、誕生後、仏門へ入れられる。





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幼名は六郎、正式名を源勝元。右京大夫。
1442年、父、持国が死去したため13歳で家督を継承し、七台将軍義勝から偏諱を受けて勝元と名乗った。
また、摂津国、丹波国、讃岐国、土佐国の守護職となる。
1445年、16歳で管領に就任する。
3度に渡り通算23年間、管領職となり幕政に影響力を及ぼし続けていた。
将軍足利義政のときは、はじめは畠山持国の力が強かったが、勝元は山名宗全の娘を妻として山名家との関係を結び持国を失脚させて自ら管領となった。
また、継嗣がいなかった勝元は宗全の子・山名豊久を養子にしていた。
持国の死後、山名宗全と対立する。
1465年、足利義視が還俗し、義政の後継者となったとき、後見人に選出された。
足利将軍家の家督相続問題と斯波氏、畠山氏の相続問題が関係して起こった応仁の乱では、東軍を率いて西軍の山名宗全や斯波氏と争った。

1466年、実子・細川政元誕生後、豊久を廃嫡し、仏門に入れている。
このことで宗全との間に亀裂が生じたといわれている。

勝元は禅宗を帰依し信仰心の強い人であったという。
龍安寺や龍興寺を建立し、和歌にも長じている文人肌の人でもあったという。
また、鯉料理などにも精通していたという。
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