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2005.09.17 日野 富子
 応仁の乱の契機をつくった日野富子のことでも書いてみよう。
北条政子に次ぎ悪女と評されている。

日野 富子

生没年:1440年~1496年

父:日野 政光
 蔵人右小弁、贈内大臣。

母:北小路 苗子
 法号は北小路禅尼。従三位。

兄:日野 勝光
 富子の同腹の兄。父・政光が出家したため、6歳で家督を相続した。
 妹の富子を将軍義政の正室に入れ、足利義尚の将軍職就任に寄与して、さらに娘を義尚の正室に入れた。
 左大臣まで上りつめる。蓄財にも励み、その権威の大きさから「押大臣」と評される。
 医師・竹田昭慶(富子の陰謀)によって毒殺されたとも言われる。

夫:足利 義政  生没年:1436年~1490年
 8代将軍。(在位:1449年~1490年)
 一揆の頻発と室町第・高倉第や東山山荘の造営などによる財政難で幕府を乱した。
 側近がかわりがわり政治に介入したため、実権のない傀儡と化したため、政治に対する熱意を失ったといわれている。  
 東山山荘では芸能者・文化人を庇護し、東山文化の興隆を支えた。

子: 夭折





足利 義尚  生没年:1465年~1489年
 乱の途中、9歳にして9代将軍(在位:1473年~1489年)となったが、実権は父・義政が握っていた。
 そのため自己の基盤強化を企て、その一端として六角氏討伐を企て出陣するが、そこで死去している。
 正室には日野勝光の娘・瑞雲院がいた。
 病弱だが大酒呑みの上、女性関係が激しかった(父・義政と女を争ったという話もある)と言われている。
 子供がなかったため、後継には義視の息子・義稙が選ばれた。

義覚

光山聖俊



日野家
 藤原北家の流れを汲む名家の家格を有した公家。
 儒道や歌道の面で代々朝廷に仕えた。
 藤原内麻呂の子の真夏の孫にあたる藤原家宗が、伝領地である山城国宇治郡日野に法家寺を建立し、薬師如来の子像を祀った。
 代々この薬師如来を伝承し、子孫の日野資業が薬師堂を建立し、法界寺を建立。
 これを氏寺とし、寺は日野薬師とも呼ばれるようになり、やがて地名が家号としたのが始まりとされる。
 室町時代、義満以後の歴代足利将軍家と縁戚関係を結び、権力を握っていた。




山城国の生まれ。
この当時の日野家は反没落状態であったといわれる。
義政の生母・重子と兄・勝光により、足利将軍の正室の座を目される。
1455年、16歳で義政の正室となる。
しかしこのとき、義政の関心は今参局にしかなかったといわれている。そのため大舘氏が権力を握っていた。
今参局(御今とも)は大館光冬の娘で義政の乳母兼側室であったという。
今参局は、義政の側に蔓延る奸臣の一人として烏丸資任、有馬持家と共に三魔と呼ばれた。
尾張の守護代の人事に介入し、守護斯波義健に対し織田敏広を更迭し織田郷広を守護代にさせようとしたという。








1459年、第1子が生まれるが夭折している。
今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖の島に流罪とさせた。
このことは義政の生母・日野重子も関わっていたという。
今参局は、その途中にて自刃した。(富子によって暗殺されたとも)
また幕政では、権勢を誇っていた大舘氏なども追放されている。

さらに義政の側室四人を追放している。

政治に興味を示さない夫に代わり、実兄の日野勝光と共に幕政にも深く関わっていた。
長年、男子が生まれなかったため、仏門に入っていた義政の実弟を還俗させ、名を足利義視と改めさせた。
このとき、もし子が生まれたとしてもその子供は仏入させ、後継ぎには義視の方をするという条件があった。
足利将軍家の人間の男子は嫡子以外全て仏門に入ることになっている。
足利義視の後見人は細川勝元がなっていた。

この翌年の1466年、富子は足利義尚を出産する。
富子は後見の山名宗全や実家である日野家の権威を背景に義尚を次期将軍に推したことで将軍職継承を巡り対立していく。
ほかに斯波氏、山名氏の家督相続問題ことなどの余波により応仁の乱の契機となっていく。

1469年、乱の最中に義尚の9代将軍就任が決定するが、義政との不和はかなり深まっていた。
1476年、花の御所が焼失すると小川御所へ移る。このときには別居することとなった。

富子は京都七つ口に関所を作り関税を徴収し、米相場や高利貸しからの賄賂を受け取るなと利殖活動を行っていた。
この財力によって室町幕府が運営されたという。
応仁の乱では敵味方関係なく武将たちの金を貸し出し、その利潤を得ていたとも言われている。
銀閣寺の設立資金も富子が出したという。

1489年、六角高瀬を討伐に遠征中の義尚が没し、次いで義政も没する。
このことで幕政への影響力を失っていく。
1493年、細川政元と共に十代将軍足利義材を廃し、義政の甥で堀越公方の足利政知の子・足利義澄を将軍に就ける。
1496年、死去。享年57。
没後、彼女の遺体は葬儀費用調達の理由をもって20余日、室内に放置されたという。

巨万の富を築き、応仁の乱の要因を作ったとされるため悪妻、悪女と評される。
近年はその評価も見直されている。
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