上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2005.09.15 斯波氏
織田の主家にあたったという斯波氏について書いてみよう。

斯波氏

足利氏の庶流であり、足利家氏が陸奥の斯波郡に下った頃から斯波氏と称したと言われている。
家氏は本来、足利氏の後継となるはずであった。しかし、生母が北条氏一門の名門でありながら非主流派の名越氏の出である事から後継にはなれなかった。
(後継には北条得宗家の時宗の叔母が生んだ頼氏がなることになった。)
しかし、嫡流を離れたとはいえ身分は鎌倉幕府の直臣たる御家人には変わりなく、足利氏嫡流の家人となった諸家とは異なり足利氏を称して一線を画した。
(庶流は細川、一色などになる。)
とりわけ足利氏一門の中では、嫡流と後に吉良氏となる三河足利家、家氏らの尾張足利家ら足利三家が幕府内でも威勢のあった家でもあった。
家氏の家系はとりわけ足利氏はおろか清和源氏にとっては聖地ともいえる紫波郡一帯に勢力を持ち、陸奥に大きな所領を有した。
家氏の家系は尾張の守に任じられたことから、尾張家、尾張足利家とも行ったかが、所領の紫波郡にちなみ斯波氏と称するようになる。

 時代は下り、元寇以来勢力を衰退させつつあった鎌倉幕府は後醍醐天皇の倒幕の綸旨が下ったことにより、大きな転換期を迎えた。
当初幕府がたとして朝廷の企てを阻止する側に加わっていた足利尊氏は次第に倒幕を志すようになり、一門の重鎮、足利(吉良)長氏に相談の上、朝廷側への寝返りを決行した。

斯波 高経  生没年:1305年~1367年
 父は斯波宗氏(家貞)。母は、大江時秀の娘。妻は吉良満貞の娘。幼名孫三郎。
1333年、後醍醐天皇の令旨に応じた足利尊氏に従い、鎌倉攻めに参加する。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が行われ、尊氏が新政から離反するとそれに従い、湊川の戦いにて新田義貞、楠木正成らと戦う。
足利尊氏が京都に武家政権を成立させ、後醍醐天皇らは吉野に南朝を成立させ南北朝時代となる。
高経は1337年、高師秦と共に越前藤島の金ヶ崎城を攻め、恒良親王を奉じて北陸落ちしていた新田義貞を破る。
足利家の内紛から発展した観応の擾乱では、初め足利直義方に、後に足利尊氏側につき、さらに足利直冬に呼応する。

斯波氏は室町幕府において執事として任用されるようになるが、当初、斯波高経は足利氏と同列と考え、嫡流の臣下がなすべき執事職を嫌ったという。
しかし、結局斯波氏は執事に収まり、斯波高経の子、斯波義政が執事となると、高経がこれを後見した。
2代将軍足利義詮時代に高経の子の斯波義将が幕府の執事となるも佐々木道誉の策謀により一時は失脚した。後に復帰する。
管領の細川頼之と対立し、反細川勢力を結集し、3代将軍義満に頼之の罷免を求める康暦の政変で管領となる。
斯波氏を名乗るのは義将以降からで、尾張、遠江、信濃、若狭、越前、越中、能登、佐渡の8国の守護を歴任し、斯波氏の最盛期を創出した。

斯波 義将  生没年:1350年~1410年
 斯波高経の4男。母は吉良満貞の娘。子は斯波義重。
 父高経と共に将軍家を補佐し、室町幕府の政治を軌道に乗せたことで知られている。
 高経の長男・家長が若くして戦死し、次男氏経は「将軍と同格」の足利尾張家が将軍の執事に就くことに反対し、さらに父高経は三男氏頼よりも四男義将をかわいがったために、義将を室町幕府の執事に補任される。
これにより事実上家督継承者の立場と認知された。 

斯波 義重  生没年:1371年~1418年
 父は斯波義将。官位は左兵衛督。
 父・義将と同じく、足利義満に仕えた。義満から越前国守護として、その所領の仕置きを命じられる。
 応永の乱では父と共に幕府側で参戦し、負傷しながらも功を上げたという。
 その功により、尾張国守護を命じられる。
 義重は義満の寵愛を受け、その猶子となり名を義教と改めた。1405年には管領を任じられている。
 義満の死後、後を継いだ義持を補佐したが、管領を子の斯波義淳に譲って隠居した。
 その後は尾張の経営に務め、寺社勢力との関係改善や強化に務めたという。
 1414年、義持の怒りに触れて高野山に追放されたという。1418年、48歳で死去。法号は道考。



その後、斯波義将は義満の没後も将軍足利義持を補佐して、朝廷から義満に対する太上天皇の尊号の追号することを拒否させたり、勘合貿易の廃止を提言するなど大きな影響力を持った。
幕府において三管領四職七頭の制ができると、斯波氏は畠山氏、細川氏と管領を出す家柄と重んじられ、他の二家を抑えて三管領筆頭の家柄を有するに至った。
斯波義重は1399年の応永の乱における大内氏討伐の功により越前国・尾張国の守護職を与えられる。
しかし、義将死後は衰退への道をたどり、義重は1414年に義持の不興を買い、高野山に隠棲する。
1409年、管領職を譲られた斯波義淳もまもなく解任され、足利義教6代将軍に就任するまで長い間、幕府から冷遇される。







 斯波氏は家柄としては三管領の筆頭を誇り、勢力も大きいことから嫡流も奥州に拠点を持った斯波氏の一門(高水寺斯波氏、大崎氏、最上氏など)らも当初は大いに栄えていた。
しかし、中央においては細川氏が政治の拠点・近畿を抑え、畠山氏も畿内近辺に所領を有するのに対して、斯波氏は嫡流が尾張国と越前国と京都から遠い位置にあり、次第に領国の実権は重臣らに牛耳られるようになり、中央界とのつながりは次第に薄れていった。
庶流も陸奥国紫波軍に拠点する高水寺斯波氏は斯波御所といわれる名声を誇り、別流である奥州探題・大崎氏や最上氏も近隣の国人を被官として従わせるなどの権勢を誇ったものの、次第に勢力を衰退させていくことになる。

 その後、斯波氏一門は嫡流・庶流ともに同じく衰退の憂き目を見ることになる。
とりわけ斯波家嫡流では尾張守護・斯波義健没後、斯波氏とは同じ足利一門の名門ながら斯波氏の血を汲んでいない渋川氏出身である斯波義廉と斯波氏庶流にあたる大野氏からの養子であった斯波義敏の争いが始まるようになる。
この家督争いが足利将軍家や畠山の家督相続と関係して1467年の応仁の乱を引き起こす原因の一つになる。
応仁の乱後は斯波氏嫡流は遠江国を今川氏に、本拠の越前国を朝倉氏に奪われて所領のほとんどを失い、尾張を領するのみの大名となった。

奥羽の一門でも高水寺斯波氏は南部氏の圧迫を受け、大崎氏は足利一門の誇りも挫かれ、次第に伊達氏の傘下となり、大崎義直が自立を果たすも伊達氏の圧迫を受けた。
伊達政宗が大崎征伐に乗り出すと苦戦を強いられたが、家臣筋で最上氏庶流の黒川晴氏が大崎方に寝返ったことで家の命脈だけは保つことが出来た。
その一方で大崎氏の分家にあたる最上氏も当初は伊達氏の傘下に組み込まれ家柄の高さゆえに傀儡とされたが、独立を果たし最上義光の手によって58万石の大国を築く。

斯波 義統   生没年:1513年~1554年
 斯波義達の子。義統の代には越前・遠江の支配権はなく、本国尾張も守護代であった織田氏が実権を握り守護の斯波氏は傀儡化としていた。
 尾張内部では織田信友と織田信秀の対立が深くなっていた。
 そこへ介入したことで信友より暗殺される。政治的以外のことでは織田信秀の側室であった岩室を巡っていたためともいわれている。

斯波 義銀  生没年:1540年~1600年
 斯波義統の嫡男。幼名、岩竜丸。
 父、義統が信友により殺されると織田信長に保護を求めて那古屋城へ逃げ込んだ。
 信長の助力を得、信友を討った。
 しかし、斯波氏の権勢を取り戻そうと画策して、石橋氏や吉良義昭、今川義元と通じたため、信長の怒りを買い尾張から追放された。
 祖父以来の主家を家臣にするわけにはいかず、追放以外の選択肢はなかったとされる。
 

斯波氏嫡流は1554年ついに、斯波義統が守護代織田信友に殺される事件が起こる。
嫡子の斯波義銀は織田信長を頼った。
信長にとって信友は勢力上では自家のほうが上であったが、本家であると同時に主君筋にあって、目の上の瘤というべき相手であった。
しかし、主家が守護である斯波氏を討ったことで、守護への反逆を口実に主家を滅ぼすことに成功した。
さらに信長は諸国の目を欺くため、一時、隠居し、所領の全てを斯波氏に返上した形をとり、吉良氏、今川氏とも同盟も結んだ。

この時、斯波氏が吉良氏と同盟する折、信長は義銀に随従し、同盟相手である吉良義昭への会見に臨んだが、席次を巡って対立を起こしたという。
吉良氏は「足利将軍家が滅んだ後は吉良氏が将軍職に」と定められた将軍継承権を有する家であり、斯波氏とて鎌倉時代以降、足利姓を有し続け、吉良氏同様幕府にて高い格式を誇り、引け目はないというのが斯波氏の姿勢であった。
しかし、いさかいを起こしながらも一応同盟を結んだ両家は次第に共に共謀し反信長への結束をすることになる。
1561年、義銀が吉良義昭、同じく斯波氏の一族で幕府の重鎮の家柄であった石橋殿味方に引き入れ信長討伐の陰謀を図るものの、未然に発覚したことから追放されてしまう。
これによりしばしは事実上滅亡の憂き目に遭うことになる。

義銀の弟は非常に優れた武将であり、次弟は毛利秀頼として織田信長に仕え、三弟は津川義冬として信長の次男・織田信雄に仕えた。

一方、高水寺斯波氏は南部氏に攻められ、滅亡。
大崎氏は伊達氏の圧迫によく耐えながらも織田信長の後継の地位を手にして関白に上り詰めた豊臣秀吉の小田原征伐参陣に呼応せず、改易とされた。
子孫は最上氏に仕えるようになる。
一方最上氏は豊臣秀吉の死後、徳川家康の関が原の戦いに望んだ折、徳川が田として参陣したことで家名の命脈はつなぐも、孫の最上家親の代に御家騒動が起こり、江戸幕府の命により改易され、大名としての最上氏は滅亡した。
幕府高家として改めて登用され、近江国に1万石与えられた。その庶流は山野辺家は水戸藩家老となったという。


スポンサーサイト

Secret

TrackBackURL
→http://bxneko.blog12.fc2.com/tb.php/102-45d0f221
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。